Respect(落合博満師匠)

最終更新: 1月1日



スポーツ観戦も大好きな私であるが、これまでスポーツに関するコラムは書いていないことに気が付いた。小学校時代は野球小僧で「虎キチ」。中学時代は野球部がない学校だったので、足が速いという理由だけで陸上部。高校時代はラグビー部。花園ラグビー場を目指しラグビーに打ち込む。当時からサッカーは人気があったが、ラグビーは「臭い・汚い・ゴツイ」集団で女性人気がない。ケガ・故障もしたのもあるが、なぜか?大学時代以降は、チャラ男として「Rock」「R&B」「Jazz」「HipHop」の世界にどっぷり状態。そんな私の下らない人生ではあるが『スポーツ・音楽・芸能等の偉人伝』は多くの感動を与えてくれ、私に勇気をくれた。今回は、落合博満師匠について言及してみたい。

1.学生~社会人~ロッテ時代

秋田工高時代の落合氏は、頻繁に野球部を退部、大会前に呼び戻されて再入部、野球部の練習にはほとんど参加しなかったが、試合では4番打者として成績を残す。72年東洋大学に進学し野球部に入部したが、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつけるといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたこともあって、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。その後は、プロボウラーを目指してボウリング場でアルバイト。そのプロテストの直前の初心者マークの付け忘れで警察に捕まり罰金という運の悪さから、プロボウラーをあきらめ、東芝府中に入社。2年ぶりに野球を再開した。78年のドラフト会議は、巨人が江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、ロッテオリオンズに3位指名され入団。

25歳という当時としては非常に遅いプロ入りとなった。入団当初のキャンプに来ていた評論家は口を揃えて落合氏のフォームを酷評し、特に金田正一氏は面と向かって落合の打撃を酷評した。落合氏はこの時の思いを「俺は社会人もやってプロ入りしたから何ともなかったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など度々口にし、金田氏が会長を務めていた名球会への入会に関して、プロ入り2年目ごろには「将来、たとえ2000本安打とか打てたとしても、名球会には入らない」と断言。

1982年に打率.325、32本塁打、99打点で三冠王を獲得したが、実力を過小評価する声が囁かれる。その声に反発するかのようにバッティング技術を磨き、85年には、打率.367、本塁打52本、打点146という圧倒的な数字で2度目の三冠王に輝き、86年にも三冠王を獲得。

2年連続三冠王は3人(王 貞治・ランディ・バース・落合)のみ。通算3度獲得したのは落合氏だけである。86年シーズン終了後、自身の理解者であった稲尾和久氏が成績不振で監督を解任されると、「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言。そして、中日へトレード移籍。

2.中日~巨人~引退

中日へ移籍した落合氏は、89年は打率.321・40本塁打・116打点の好成績を残して打点王を獲得。91年は、三冠王を獲得するため本塁打狙いにいった結果打率が下がり、打率.340・37本塁打・91打点で本塁打王のみに終わる。

FA宣言した93年には、すでに40歳を超えており、パワー面での衰えは顕著だったので、一部評論家からも「大きな期待はできない」「獲得するにはリスクが伴う」という声もあったが、巨人・長嶋茂雄監督は「若い選手に生き様を見せてほしい」と熱烈なラブコールを送り続け、落合氏は巨人入団。4番バッターとして、94年・96年と2度のリーグ優勝に貢献。特に43歳となった96年には、打率.301、21本塁打、86打点という好成績を残す。

しかし96年オフ、巨人はFAで清原和博氏を獲得。落合氏は「清原と勝負して負けるとは思わないが、どちらを使うかで悩む監督の顔は見たくない」と自ら自由契約を申し出て日本ハムへ移籍。その後45歳で引退。

3.現役時代の伝説

プロ通算500本安打、1000本安打、1500本安打、2000本安打をすべて本塁打。

打撃練習中にマスコミのカメラが目の前を通るので「危ない」と何度も警告した。だが、カメラマンが居座ったので「じゃあ、そこ、狙うから」と言い、打撃練習の1球目を打ち返し、カメラマンの手持ちカメラを破壊した。

東尾修氏から死球をくらったら、次の次の打席でピッチャー返しし打球を左肩に直撃させ東尾氏を病院送り。実は前の打席も狙ったが、センター前のヒットになって一塁で首をかしげていたという。

日本ハムで消化試合という寂しいシーズン最終戦で、上田監督からの先発出場を断り、自らのプロ入り初打席と同じ代打での出場を選んだ。任意引退ではなく自由契約での引退という引際になった。

生涯通算打率.311は日本人右打者の歴代最高打率。鈍足の右打者でありながら圧倒的な打撃成績を残し続けたことで、「プロ野球史上最高の右打者」である。

4.監督時代の伝説

「勝利が最大のファンサービス」とし、とにかく勝利のみを求めた。マスコミは「非情采配」と書き立てることは多かった。監督としてチームを率いたのは8年間。4度のリーグ優勝に日本一1回。最大10ゲーム差をつけられながら、逆転優勝を果たしたこともある。

2007年の日本シリーズ第5戦。先発の山井投手が8回まで日本ハム打線をノーヒットに抑えていたが、9回のマウンドは守護神の岩瀬投手だった。点差は1点差。実は山井投手は右手薬指のマメを潰していたのである。中日は「53年ぶりの日本一」になった。最近になって真実がわかったのだが、8回終了後、森コーチが山井投手に問いかけたところ「交代してください」と言い、その話が落合監督に伝わり『本人がダメなんじゃしょうがない』ということでピッチャー交代になったそうだ。

この真実は、落合監督の口から公に発表されることはなかった。

連覇したのもかかわらず「監督解任」となった。その際に記者に向かって口にしたのは「契約だから」という一言だった。落合監督解任後の中日はBクラスに沈んでいった。

解任の2年後の2013年10月9日に中日のGMとなり、2017年1月で退任した。

日本プロ野球界で、基準達成しても「名球会」に入っていないのは、落合氏だけである。

これだけ【凄い】落合氏なのだが「オレ流」だからか、何かにつけて批判される。そんな部分も最高に「Cool」で格好いい!

激動の世の中において「どこを切っても金太郎飴」的な人材育成体制である大企業は、時代に取り残されていく。落合師匠のようなリーダーが必要なのでは?


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